魔法の雨

 

 

 

 

『ちょっと大きいかもしれないけど、このTシャツ、パジャマ代わりに使って。』

そう言って、友だちがロングTシャツを出してくれた。

わたしはうつむいたまま、うん、と小さくうなづいて受け取る。

土砂降りの雨の中、傘も差さずに彷徨い着いたのが彼女の家だった。

突然訪れた濡れネズミのようなわたしに、彼女は慌ててバスタオルを被せて、ぎゅ~って抱きしめてくれた。

止めどなく涙が溢れた。

頭の中が真っ白で、なんにも言葉にできないのに、ただただ流れる涙が止まらなかった。

背中をさすってくれる彼女の手が、冷え切ったわたしの心と体を、ほんのり温めてくれた。

 

シャワーを浴びて彼女が出してくれたTシャツを着る。

無言のまま部屋に入ると、彼女が温かなスープを差し出してくれた。

『体の芯から温まるよ。』

そう言いながらテレビをつけると、ご近所さんが洪水で通行止めになっている映像が全国ニュースで流れていた。

『うわぁ~あんたよくここまで歩いて来れたね!』

本当に驚いたように、わたしをまじまじと見る。

わたしはうつむいたまま、何も言えない。

ふぅ~。ひとつ溜息をつき、『それ飲んだらもう寝なさいね。』って言いながら、ベッドを指さした。

わたしが顔をあげて彼女を見ると、『わたしは大丈夫。このソファ、ベッドになるから。』そう言いながら、すでにベッドに変化(へんげ)させている。

わたしはスープカップを片付けて、ベッドに入る。

柔らかなフリージアの香りの香水。

彼女に抱きしめられているような感覚に陥って、すぐに眠りに入った。

彼女は何も聞かずに、やはりソファベッドで眠りに着いた。

それが7月の初めの頃の出来事。

 

 

タン‥タン‥‥タタン‥‥タン‥‥‥。

リズミカルな音に、うっすらと目を開けてみる。

幾重にも重なるレースのカーテンの向こうから聴こえてくるそれは、雨どいの繋ぎ目から滴り落ちる雨音のようだ。

布団の中で体勢を整えて、ぼんやりと眺めていた。

しばらくして、部屋の中が静かなことに気づく。

あれ?彼女は‥?

わたしはベッドから降りると、彼女が寝ているはずの部屋に行ってみる。

ソファの上にはお布団がきちんとたたまれていて、テーブルの上には彼女が作ってくれたご飯が置いてあった。

『人間が生きていくうえで最低限必要なのは、睡眠と食事だ!

 ちゃんと食べたか帰ったらチェックするからね!』

ぷ‥思わず吹き出してしまった。

女にしておくのは実にもったいない‥そう思ってしまうほど、彼女のたくましさがうらやましい。

彼女の作ってくれたご飯をひと口頬張ると、また涙が溢れてきた。

『あとでいただきます。』

お箸を置いて彼女の手紙に書き足し、またベッドに横たわった。

今はただ何も考えず、無の中にうずもれていたい。

ここ数か月、ほとんど眠れていなかったからー。

 

 

彼女の家に来てから数日が経った。さすがにいつまでも迷惑をかけるわけにはいかない。彼女がお仕事に行っている間にお布団をたたんで、掃除機をかける。

小さめの台所に立って、久々にお料理。

何年ぶりかな。彼と出逢うとっくの前に、包丁すら持つのをやめていた。

でもまぁ、まだそれなりの見栄えでは作れるらしい。我ながら感心しつつお料理を並べて彼女の帰りを待つ。

しばらくして彼女が帰ってきた。

『ただいま~!』

『おかえり‥。』

わたしが出迎えると、彼女がんん?って不思議そうにわたしの顔を覗き込む。

『ずいぶん顔色良くなったね!』

そう言いながら、部屋に入るなり『わぉ~!』と奇声を上げた。

『すっごいじゃん!何この豪華な料理!!』

『や、一宿一飯の恩義?正確には一週間くらいだけど‥。』

どれどれ~と手も洗わずにつまみ食いする彼女。

『うん、うまい!さすが調理師だね~!』そう言いながらしっかり座って食べ始めた。

『こんなに料理上手のあんたを泣かせるなんて、あんたの彼氏は何考えてるんだろうね~。』

そんなことを言う彼女に、わたしはぼそっと呟いた。

『免許持ってるって言ってない。お料理も作ってあげたことない‥。』

わたしの言葉に彼女は目を丸くして、持っていたお箸を落とした。

『は?なんで‥?なんかされたの!?』

彼女の目が少し怒気を帯びたようにわたしを捕らえた。

わたしはびくっとなって、慌てて否定した。

『ち、違うの。彼はたぶん、わたしが作ったものは何でも食べてくれると思う。』

ふぅ~と息を吐いて、わたしがお料理できなくなった訳を、彼女に話した。

はじめてお付き合いした彼は料理人で、わたしの作る料理なんて口も付けてくれなかった。次にお付き合いした彼は、まな板からはみ出すくらいのお魚さんをさばいているわたしを見て、「お前は無人島でも生きていけるよな。」そう言ってか弱い女性の元へ行ってしまった。

その後も一人暮らしの長かった彼には「免許もってるなんて恥ずかしいから言うな。」とか、本当にひどいことばかりで、いつしか台所に立つのも嫌になっていた。

そんなわたしの話を真剣に聞いていてくれた彼女が、『だったらわたしのところにお嫁に来なよ。わたしなら大歓迎だ。わたしのために毎日ご飯作って!』そう言いながらうつむいていたわたしの顔を覗き込む。

わたしの目からは涙がぽたぽたと零れ落ちた。

ずっと抑えていた感情が溢れだす。

そんな時、突然チャイムが鳴った。

『あ、晩ご飯にと思って頼んでたピザ屋さん来たみた~い。』

彼女はそう言いながらパタパタと玄関に行ってしまった。

わたしが止めどなく溢れる涙を拭いていると、『バカだな。』ずっとずっと聞きなれた声が頭の上から降ってきた。

びっくりして振り返ると、なぜかそこには彼がいたー。

 

『な、ななななんでここに居るの!?』

わたしが慌てて立ち上がると、『ほら、帰るぞ。』そう言いながらわたしの腕をつかんで玄関へ向かう。

『え、え‥やだ、助けて‥‥!』彼女を見やると、彼女は『またね~!』ってにまにましながら手を振っている。

 

 

彼に手を繋がれたまま、隣をとぼとぼと歩く。

正面をまっすぐ見ながら無言で歩く彼の顔を、うつむきながら上目遣いで見る。

いつの間にか本降りになった雨に、わたしが濡れないように傘を傾けて差してくれている。

こんな時でも優しい彼に、自分が情けなくてまた涙が溢れてくる。

『‥なんで彼女のうちがわかったの‥?』

わたしがぽつんと呟くと、彼はこちらを向いて立ち止まった。

『彼女が連絡をくれたんだ。』

彼の言葉に、あ、そっかぁ~と納得する。

でも‥。

『お仕事忙しいんでしょう?わたしのことなんかほっとけばいいじゃん。こんな‥自分のことしか考えられないわたしのことなんて‥。』

なんで迎えに来たの‥?と言葉を続けた。

『あいつ、「今日迎えに来なかったら、わたしが嫁にもらう!」って言ってきたんだ。』

そう言って彼は顔をそらして、話を続けた。

『さっきの話、全部聞いてた。あいつずっと、電話繋いで会話が聞こえるようにしてたんだ。』

そう言って、わたしの方に向き直る。

わたしはびっくりして、慌てて謝る。

『あ‥今までずっと言えなくてごめんね。コンビニのおにぎりさんも確かにおいしいけど、これからは‥ちゃんとご飯作るからね。』

そう言うと、彼も、『俺もいろいろ謝らないといけないことはいっぱいあるけど、一番は、お前にプレッシャーをかけてたのかな‥と。』と話し始めた。

『「いいお嫁さん」って言うのは、なにもすべてを完璧にしてくれって意味じゃなかったんだ。ただ笑顔で、俺のそばに居てくれればそれだけでいいんだ。』

わたしはまた、うつむいてしまう。

それでも彼は、言葉を続ける。

『俺はそんなに器用じゃないから、ひとつのことに夢中になると手いっぱいになって他のことを見られなくなるけど、仕事が忙しくなると寂しい思いもさせてしまうけど、それでも俺のそばに‥居てくれないか?』

彼もうつむいてしまった。

『いつも‥何をするにも自信がなくて、人の反応が怖くて、大好きな人の反応が一番怖くて‥無言にも耐えられない。』

わたしの目からぽたぽたと涙が零れる。

ずっと気づかないふりをしていた、自分の心の奥底にあったものが、言葉になって出てきた。

彼が、傘を持つ手とは反対の腕で、わたしの肩を抱き寄せた。

『俺だって怖いよ。でも、お前と生きられないと思うと、そっちの方が怖い。』

顔をあげると、すごく真剣な顔でわたしを見ていた。

わたしはふと目をそらし、『ま‥まぁ、今日は七夕様だし、ちゃんと彦星様がお迎えに来てくれたから‥うん、あなたについて行きます。』と、照れ隠しに言ってしまった。

彼は、ふっ‥と息を漏らし、『まぁ、今日くらいはこの優秀な彦星がちゃんとそばに居てやらないと、織姫がかわいそうだからな!』なんて憎まれ口を聞く。

わたしはくすくすと笑ってしまった。

彼も、いつもの優しい笑顔になった。

まぁ、『優秀』なのは間違いないけどね。そんなことを思いながら、ふと、本降りの雨が小雨になったのに気づく。

『あ、彦星様と織姫様は、雨が降ると逢えないんだよ。』

わたしが彼の眼を見て言うと、『こうして逢えてるだろう。』と彼が見つめ返す。

『だいたい、彦星も織姫も、みんなに逢瀬を見られたら恥ずかしいだろうから、雨でいいんだよ―‥。』

そう言った彼が傘を持つ手を車道に傾けて、わたしを抱き寄せた。

そして‥濡れた唇をわたしの濡れた唇に――。

 

 

どれほどの時間が流れたのかわからないほど、二人だけの時間がそこにはあった。

『七夕』と言う説話の力を借りなくても、きっとずっと一緒だよ。

だって、心と心の繋がりは、確かにここにあるから、ね。

 

 

 

 

 

初出:2019-07-07 00:00:00

 

 

 

 

魔法の館

 
 
 
 
 
残業帰りのその日、ふと、いつもとは違う道を通ってみようと思った。
ちょっと薄暗くて人通りが少ない道だけど、もしかしたら近道かもしれない。
しばらく細道を歩いて行くと、三叉路に出た。自分が来た道を除くと、行く道は二つ。たぶん、右に行くとそのままおうちに着けると思う。でもわたしは、左を選んで進んでみる。
すると、車一台が通れるかどうかのかなり細い道になり、「この先行き止まり。」という看板が目についた。
『あ~残念。ダメだったね。』そう呟いて戻ろうと思った瞬間、行き止まりの道の向こうに、ほんのり明かりが灯っているのが目についた。
赤と言うか緑と言うか橙と言うか‥温かそうな柔らかな光が、塀の向こうから灯っている。
今日はだいぶ遅くなったけど、遅くなったついでだし‥と思い、そ~っと足を忍ばせてその家まで行ってみる。
 
目の高さくらいの真っ白な塀の向こうに、古びたおうちが見えた。
人の気配は感じられない。
おうちと塀の間が広く、たぶんお庭になっているんだと思う。
わたしは周りに誰もいない事を確認して、塀に手をかけてよじ登ってみた。
 
『うわぁ~~すごい!』
わたしは思わず声を出してしまった。
そのお庭には、色とりどりの、沢山の種類の紫陽花が植えられていた。
ちゃんと歩く道も作られていて、ところどころに蓄光タイプのライトが置いてある。淡い光に照らされた紫陽花は、今が夜だと感じさせないくらい生き生きと輝いていた。
わたしは時間を忘れて、しばらく見入ってしまった。
 
しばらくして、後ろに何かの気配を感じて振り返ると、そこにはにこやかな表情の男性がいた。
わたしはびっくりした拍子に、塀の上にかけていた手を放してしまう。
バランスを崩して落ちそうになったところで、男性が慌てて抱き留めてくれる。
『す、すみません。ごめんなさい。申し訳ございません!』
慌てたわたしは、なんとか謝罪の言葉を口にし、自分の足で立つ。
『いや、構いませんよ。』男性はそう言って、わたしについたほこりを払ってくれた。
 
『あの‥いつからそこに居たんですか?』
わたしは場をつなぐために、聞いてみた。
 
『あなたが塀をよじ登っているところからです。』
彼は平然と答えた。
 
う‥そんなところから‥。
『すみません、ありがとうございました。』と言って立ち去ろうとするわたしに、『良かったら見ていきませんか?』と彼が言って、お屋敷の門を開けた。
あれ?このおうちの人だったんだ。
一瞬どうしようかと思ったけど、折角だからお邪魔することにした。
 
そのお庭には、本当にたくさんの紫陽花が植えられていた。
レトロなランプを片手に案内してくれる男性は、まるで西洋の紳士みたい。
『なんでこんなにたくさんの紫陽花を植えてるんですか?』
わたしはふと尋ねてみた。
彼は振り返り、にこやかに答えてくれた。
 
『この紫陽花は、私と大切な人との思い出なんです。その人との間に、幸せなことがあったらひとつ、楽しいことがあったらまたひとつ、そうやって少しずつ増えていったんです。気がついたら、こんなにいっぱいになっていました。』
 
『へぇ~素敵ですね!』
わたしは心からの笑顔で彼を見た。
 
『もう増えませんけれどね。』
彼は少し俯いて、ぼそっと呟いた。
わたしが『えっ?』って聞き返すと、彼はまた笑顔に戻って、小毬紫陽花をひとつぱちんと切って差し出した。
わたしが困惑していると、『どうぞお持ちください。』と言って、わたしの手にそっと置いた。
 
『この紫陽花に半紙を巻いて、家の中のお好きなところに”逆さまに”吊り下げてください。魔除け、厄除けのおまじないです。そして、幸せになれるよう祈りが込められています。』
 
わたしは紫陽花を、両手でそっと包み込む。
彼はさらに言葉をつづけた。
 
『だいたいいつでもいいのですが、6が付く日に行うのがいいんですね。でも、今日、6月26日が、一年の中で最良の日なんですよ。』
 
彼がとても優しい目でわたしを見てくれるので、わたしも優しく微笑み返した。
 
『ありがとうございます!ずっとずっと大切にします!!』
 
わたしは一礼をして、お屋敷を後にする。
彼はずっと、わたしが見えなくなるまで見守っていてくれた。
 
 
家に帰って、早速紫陽花に半紙を巻いてみる。
半紙だけじゃ寂しいから、赤いリボンを巻いて、ベッドの脇に吊り下げてみた。
白を基調にしているお部屋に、淡く色づく紫陽花を見ていると、なんだか幸せな気持ちになる。
『ふふっ、もうご利益があったのかも!』
紫陽花にそっとキスをして、眠りについた。
明日もまた、あのおうちに行ってみようかな。
 
 
 
 
 
初出:2019/6/25 10:23:09
 
 
 
 

魔法の風

 
 
 
 
扉の向こうに吹き込む風は、心の隙間を埋めるかのように、やさしく‥そして温かい。
その日玄関を開けると、たくさんの桜の花びらが吹き溜まりを作っていた。
あ、今年はお花見に行けなかったなぁ~と思いながら、花びらを両手いっぱいにすくってみる。
ふわぁって空に向かって放ってみると、やわらかな風と共に降り注ぐ。
フラワーシャワーのように舞い降りる花びらは、5月の朝日にきらきらと輝いていた。
 
 
『ところで‥管理者に興味はありますか?』
 
部長との和やかな定期面談中、部長が神妙な面持ちで聞いてきた。
あまりに突然だったため、わたしは吹き出してしまった。
 
『え~わたしが管理者なんてできると思います?』
 
そう言うわたしに、部長は慌てて手を振った。
 
『あ、いや。無理にとは言わないよ。ひとりになったって聞いたし、そろそろ管理職もいいんじゃないかと思ったんだ。ほら、結婚しないんだったら「仕事に生きる!」でしょ?』
 
一気にわたしから笑顔が消える。
 
『いったい誰が言ってたんですか!?今日の面談は終了します!お疲れ様でした!!』
 
ドアをバタンと閉めて会議室を出たわたしに、『待ってるよ~急がないからね~。』と、部長のか細い声が聞こえてきた。
部長と言っても社歴はわたしの方が長いので、業務以外ではお友だちのようだ。
まぁ一応お仕事は真面目にやってるけど、もちろん。
 
自席に戻って思わず深いため息をつく。
大好きな彼と連絡が取れなくなって2か月。
いい加減、捨てられちゃったってことを認識しなくちゃいけない頃だと思う。
でも、頭ではわかっていても、心が追い付かない。
彼と一緒に居ることが当たり前で、彼のお嫁さんになることだけを考えて生きてきたから‥。
その現実が消えてしまった今、どう生きていいのかわからない。
わたしの生きている意味はいったい何?
今までどうやって生きてきたのか、これからどうやって生きていけばいいのか‥考えても考えても答えが出ない。
 
『な~にため息ついてんだ?悪いもんでも食ったか?』
 
後ろから書類で頭を小突かれる。
振り返るとそこには、口の悪い強面の係長がいた。
 
『何するんですか!記憶のねじが飛んでっちゃうじゃないですか~!』
 
係長はわたしの頭をペシペシしながら、大笑いした。
 
『大丈夫だ、お前の記憶は底辺だから、これ以上なくなることはない。』
 
うう‥確かに記憶力がないわたしだけど、忘れられないことだってあるのに‥。
ぐっと歯を食いしばったと同時に、涙が零れた。
びっくりした係長が後ずさる。
 
『うゎ‥なんで泣くんだ!?すまん、そんなつもりじゃなかったんだ‥!』
 
係長の顔が引きつっているのがわかる。
そんな係長を見ることができず、わたしはうつむいたまま呟いた。
 
『2か月です‥。』
 
『え‥?』聞き返す係長に、わたしはつい、言葉を続けてしまった。
 
『もう2か月も経つのに、未だにお迎えに来てくれるんじゃないかと信じてるんです‥。』
 
涙声のわたしの言葉に、係長がぼそっと呟いた。
 
『まだ2か月だよ。』
 
わたしはびっくりして、係長を見上げた。
係長はそっぽを向きながら、『まだ、2か月だよ。』そう言った。
 
『ほ‥惚れちゃいますよ‥!』わたしは涙を拭きながら、いつもの軽口を言ってしまう。
 
『ば~か!俺は愛する嫁さん一筋だ!』
 
照れもせず真面目な顔でのろける係長が可笑しくて、さっきまでの涙を忘れて笑顔になれた。
いつも厳しくて怖いけど、こんな時に優しくしてくれる上司に感謝だね。
 
 
その日の帰り道、課長と一緒になった。
いつも優しい天使のような笑顔で接してくれて、殺伐とした職場の中で、唯一の癒し的存在だ。
そんな課長に、わたしはふと尋ねてみる。
 
『課長は、なぜ管理者になったんですか?』
 
課長は足を止め、優しい笑顔で話してくれた。
 
『私はここに来る前、小さな部署の部長をしていたんです。でもちょっと疲れちゃってね。一旦管理者を降りて、平社員として働いていました。』
 
『そうだったんですか‥。』初めて知る課長の過去に驚いて、課長を見つめる。
 
『でもね。』と課長が話を続ける。
 
『この部署に来てみなさんと接することで、また元気を取り戻せたんです。なので、また管理者をやってもいいかなって思えたんです。』
 
課長の柔らかい笑顔が、この部署の優しさを表しているのかもしれない。
 
『わたし‥管理者にならないか?って聞かれたんです。でも‥こんなわたしができると思えなくて‥。「わたしになんかできない」って、自分でそう思ってしまって‥。』
 
わたしの言葉に、『あぁ、そう言うことか。』と課長が呟いて、真剣な顔でわたしを見た。
 
『「やってほしい」って言われたときに、自分に余力があったらやってみてもいいと思うんです。とりあえずやってみて、やっぱりダメだと思ったらリタイアしてもいいから。自分からやりたいって言ってやるのは、それだけで敷居が高くなるでしょう?ダメだったときに、なんだダメじゃないかって言われちゃうしね。今、もしやってみたいって思うなら、みんなでサポートしてあげられるよ。』
 
最後はにこっと笑顔を見せてくれる課長の頭上に、天使の輪が輝いていた。
 
 
翌朝、わたしは部長の手を取り会議室へ引きずり込んだ。
 
『昨日のお話、全然自信ないけど、わたしで良ければ管理者やってみてもいいかも‥です。』
 
部長は一瞬、豆鉄砲を食らった鳩のようにおめめを丸くしたけど、わたしの言葉を理解すると満面の笑みになった。
 
『おぉ~決心してくれたか!助かるよ!!早速新人研修から入ってくれ~。』
 
そう言うとわたしの手を両手で握りしめてぶんぶん振った。
わたしは慌てて手を振りほどく。
 
『や、ダメそうだったらすぐ降りますからね!!』
 
部長は、『そんなこと言わないでくれよ~。』としゅんとなった。
すかさずわたしは提案する。
 
『と言うことで、部署名を「おはな」にしましょう!』
 
わたしの言葉に、部長が『は‥?お・は・な??』と聞き返す。
わたしは得意げに話を続ける。
 
『「Ohana」はハワイの言葉で「家族」を意味します。でも、血縁関係がなくてもOhanaになれるの。だから、新人さんたちはみんな子供たちで、Ohanaだよ!』
 
部長はぽかんと口を開け、『いや、ここ‥会社‥。』と力なく言った。
わたしは聴こえないふりをして、会議室を後にする。
『仕事しようよ、仕事‥。』そう言いながら泣いている部長は見えない見ない。
 
 
寒い雪の季節から、徐々に暖かな季節へと移り変わる。
扉の向こうに吹き込む風は、心の隙間を埋めるかのように、やさしく‥そして温かい。
少しずつ‥ほんの少しずつかもしれないけど、前に進んで行けたらいい。
わたしもいつかあなたのように、大切な人たちを守れるようになれるといいな。
ううん、きっとなれると信じてー。
 
 
 
初出:2019/5/10 00:24
 

魔法の雪

 
 
 
 
『ねぇねぇ、寒くないですか~?』
『ご飯食べましたか~?』
『ちゃんとお布団で眠れましたか~?』
 
年度末は嫌い。お仕事が忙しくなるから、会社に泊まり込んでしまう彼に逢えないし、電話にも出てもらえない。
いっつもわたしから電話して、留守番電話に声を残すだけ。
わたしたち、本当にお付き合いしていますか?
わたしの彼氏さんは、どこで何をしていますか?
誰に聞いたらお返事が来るのかしら?
うう‥なんか空しい‥。
 
 
そろそろ桜の開花情報が流れてくる季節なのに、今夜はやけに冷える。
お部屋の中に居たって、吐く息が白くなるくらい。
寝る前に、ちょっとお部屋を暖めようとヒーターを入れてみる。
今夜のお月様はどうかなぁ~ってカーテンを開けてみると、いつの間にか雪が降りはじめていたみたい。
 
『うわぁ~~すごい!もう3月も終わるって言うのに、雪が降ってる!!』
 
わたしはなんだかうれしくなって、つい彼に電話をしてしまった。
「ただいま電話に出ることができません。ご用件の方は~。」
 
あ‥また彼に電話しちゃった…。
まだお仕事中だよね。いつもごめんね。
わたしはそっと電話を切って、お布団の中にスマホを隠した。
 
 
深夜になると雪足がいっそう強くなり、どんどんどんどん積もっていく。
明日の出勤も心配だけど、それよりも何よりも‥!
 
わたしはベランダに出て、あるものを作った。
そして写真を撮って、彼にメール。
 
『いつもわがままでごめんね。お仕事がひと段落付くまで、おとなしく待ってるよ。でもちゃんと、ご飯と睡眠はとってね!!いつでも応援してるよ!!お仕事ふぁ~いと!p(*^-^*)q』
 
 
いい加減、ホントにそろそろ寝ないとやばいかもって思う時間になったころ、いつもは鳴らないスマホが鳴った。
こ、こんな時間に電話?
わたしは小学校の頃の怪談話を思い出し、恐る恐るスマホを見る。
ええええ‥?彼から??
今まで彼から電話をもらったことなんて、なかったのに‥?
 
わたしはびっくりしてスマホを落としてしまった。
その拍子に彼の声が聞こえてくる。
 
『いったいこんな時間まで何してんだ!!』
 
やばい‥めちゃ怒ってるよ‥。
わたしは慌てて電話を拾って、とりあえずお返事してみる。
 
『ご、ごめんなさいなのです‥。あなたのことが心配で眠れないのです‥。』
 
わたしが言うか否や、彼が言葉を割って話し始める。
 
『いいか?夜更かししている悪い子は、あとでた~~~っぷりお仕置きだからな!俺の心配するより、自分の心配しとけよ!!』
 
そう言って電話を切られてしまった。
もちろん、わたしの体調を気遣っての言葉なのはわかっているけど、わたしの頭の中では、彼の言葉がリフレインする。
お仕置き‥お仕置き?お仕置きって何??
まさか、床磨き10時間とかダイエットのためのランニング2時間とか‥?
考えただけでそれはそれは恐ろしく‥ちゃんと寝ることにした。
 
お布団に入って、ふと思う。彼が元気そうでよかった。
あんまり無理しないでね。
疲れた時は、いつでも帰ってきていいからね。
お仕事ふぁ~~~いと!
 
 
 
季節外れに降る雪は、そっと優しさを運んでくれたのかもしれない。
そんな風に思えるほど、温かく幸せな気持ちにさせてくれた。
また逢えるかな‥?
ううん、きっとまた逢えるよね!
 
 
 

f:id:alicenoko:20201121193318j:plain

 
初出:2019/3/1 23:55
 
 

魔法のポラリス






「もし夜に道に迷ったら、夜空を見上げるんだ。きっとあの星が行き先を示してくれる。」

そう言ってあなたはわたしを抱き寄せて、北の夜空に輝く大きな星を指さした。

「もし寂しさに押しつぶされそうになったら、俺を思い出して。いつもここに居るし、いつでもお前を守っているから。」

そう言ってわたしに、三連星のペンダントをしてくれた。
あれはあなたが長期の海外赴任に旅立つ前日の夜。
某ドラマに出てきた、ポラリスのペンダント―。

あれから2年、あなたの帰りを待つわたしの胸には、いつもポラリスが揺れている。
お仕事で失敗して落ち込むときも、帰りの夜道が怖い時も、もちろん寂しい時も‥いつもあなたがここに居るって思えば怖くない。
わたしはポラリスのペンダントをぎゅっと握りしめた。
ここ最近‥と言うか、ここ数か月、彼と連絡が取れない。
時差があるのはわかるし、お仕事が忙しいのもわかるけど‥せめて気づいた時くらいメールのひとつもくれたらいいのに‥。

まぁそんなこんなで、わたしはある計画を立てた。
きっとご飯もちゃんと食べていないかもしれないし、ね。


「Sorry, how do you go to White Sachs Avenue?」

わたしは翻訳アプリの入ったスマホと地図を片手に、とある町の空港にいる。
なんとなく人相的に話しかけやすそうな異国のおじ様を見つけて、拙い英語で話しかけてみる。
突然見ず知らずのちびったい女子に片言の英語で話しかけられたおじ様は、訝しげな表情をしながら流ちょうな英語でぺらぺらと話し始めた。
わたしはびっくしりて、慌てて両手をバタバタとしながら「Sorry, could you speak a little more slowly? I do not speak English!!」と言うと、事情を察してくれてゆっくり丁寧に教えてくれた。
おじ様の言葉を頭の中でゆっくり翻訳しながら地図とにらめっこし、なんとか理解したのでお礼を言って別れようとすると、

「You are speaking English properly. Because it makes sense to me properly. With confidence. Good Luck!」

満面の笑顔で力強くウィンクまでしてくれて、なんだかすごく嬉しくなった。
彼に逢いたい一心でわき目もふらず来てしまったけれど、異国の町へひとりで来るなんて生まれて初めてで、やっぱりちょっと怖いよね。
でも、わたしにはいつも、あなたがそばに居てくれる。
「大丈夫」そう呟いて、胸に輝くお星さまをそっと握りしめた。


おじ様が教えてくれたバスに乗って、4つ先のバス停で降りる。
観光地に近いこの町では、クレジットカードのおかげでバスが無料だ。
なんて良いシステムなのだろう。あとでちゃんとカードでお買い物しなくちゃなんて思いながら、彼が教えてくれていたアパートメントを目指した。


ほどなくして行きついたアパートメントは、小高い丘の上にあった。
この道を、彼が毎日歩いているのかと思うと、ちょっとドキドキしてしまう。
そんなことはさて置き‥建物への入り方がわからない。
とりあえず時間的にはまだ帰っていないと思うので、木陰でちょっと休むことにした。

しばらくして、建物の前で車が止まる音がした。

「Thank you. You’ve always been a great help.」

「I'm happy to have been able to help you out.」

そんな会話が聞こえて来て、車を降りた男性がこちらを振り向くと、狐につままれたような顔でフリーズしてしまった。

「やばい‥幻覚まで見えるようになったよ。」

そう日本語で呟いて建物に入ろうとする。

「待て待て~わたしをスルーして行かないでよ!」

慌てて彼の背中を引っ張ると、彼がゆっくり振り返った。

「なんでお前がここに居るんだ!?どうやってここまで来た?いやそんなことより、ここがどこだかわかっているのか!?」

そう言いながら、ぎゅ~って抱きしめられる。
んん?言ってることとやってることが違うけど‥わたしも彼をぎゅ~って抱きしめて、彼の胸に顔をうずめる。
何年ぶりだろう、こうして彼と抱きしめ合うの。

「逢いたかった‥。」

彼の言葉に、「わたしも‥。」言葉にならなくて、涙が溢れてくる。
ずっとずっとこうして居たい―。


彼のお部屋にあがって、とりあえず荷物を置く。
きれいにしていると言うより、しばらく使っていない感じ?
わたしがあちこち見回していると、彼が窓を開けながら言った。

「あぁ、仕事が詰まってて、ここ数日‥と言うか、2か月くらい帰ってきてなかったから。」

そんな‥体壊しちゃうよ‥。
確かに最後に逢った時よりかなり痩せちゃってるよね。
わたしもダイエット頑張ってるけど‥そんなんじゃないもんね。

「そか‥キッチン借りるね。先にシャワー浴びてきていいよ。」

そう言いながら、わたしは持ってきたトランクの中から、お野菜を取り出した。
入管で見つかったらなんて言おうって考えていたけど、お洋服の間に忍ばせてたから見つからなかったのよね。
今日は腕によりをかけて、彼の大好きなカレーを作るの。
この日のために、ちゃんと練習してたんだから。

そろそろ煮込みに入るころ、「ん~いい匂い!カレーなんて久しぶりだな。」そう言って、彼が後ろからわたしを抱きしめてくれた。
ふにゃ‥。なんかこの感触、本当に久しぶりで照れる‥。

「後は俺がやっとくから、お前もシャワー浴びて来いよ。」

「うん、あとはまぜまぜしながら煮込むだけだから。」

そう言ってわたしもシャワールームに向かう。


カンパ~イ!
彼が出してくれた赤ワインで乾杯をする。
お酒好きの彼がチョイスしてくれるワインは、いつもわたしが飲みやすいものにしてくれる。
ホント、こんな素敵な人がわたしなんかの彼になってくれたのが不思議なくらい。
本当にいいのかなぁ~と思いながら、彼のやさしさに甘えたままここまで来ちゃった。

「ね、カレー食べてみて!あなたがいない間にいっぱい練習したんだから。」

そう言うと、彼がひと口ほおばって、「うん、うまい!」って言ってくれた。

「やったぁ!」わたしはすごく嬉しくなって、自分でも食べてみる。
んん?わたしが作ったものよりもおいしくなってる?
しばらく止まったまま無言になってしまったわたしに、「きっと逢えた喜びが魔法になって、おいしいカレーにしてくれたんだよ。」って言いながら幸せそうにカレーを食べる彼。
わたしよりお料理上手な彼のことだから、わたしがシャワーを浴びている間に味を直してくれたのね。
うん、やっぱり彼が大好き!そう心でつぶやいて、わたしも笑顔でカレーをいただいた。

食器を片付けて、ソファーでくつろいでいる彼のお隣へ座る。
彼は肩に手をまわして、わたしを引き寄せてくれる。

「これ、つけてくれてるんだね。」

そう言って、わたしの胸元にあるペンダントを手に取る。

「うん、ずっとずっとね。あなたが一緒に居てくれる、そばに居てくれるって思ってたの。わたしの道しるべであり、わたしの帰る場所だから。」

わたしはカバンから、小さな包みを出して彼に手渡す。

「これ、よかったら使ってもらえると嬉しい。」

彼はびっくりしながらも、「いったいなんだ?」と包みを開ける。
中には、ポラリスのペンダントトップと同じモチーフのクリップが付いたボールペン。

「いつもお仕事ばかりだから‥。書類ばっかり書いてて夜空を見上げられないときとか、疲れたなぁ~とか寂しいなぁとか‥そんな時にこのペンを見てわたしを思い出してくれたらいいなって思ったの。」

彼は、え?って言う顔をしてわたしを見る。

「あ、んと、ほら。ポラリスはいつも同じ場所にあって、いつも同じ輝きでみんなを見てるから‥。わたしもそうなれたらいいなって‥。」

「ばかだな…。」彼は小さくそう言って、わたしをぎゅって抱きしめた。

「ずっと、俺のポラリスはここにある。」

そう言ってわたしの胸元にあるペンダントを指で押さえる。

「お前にとってはこれが俺の代わりで、ずっとお前のそばでお前を守っているけど、俺にとっては俺の帰る場所を示しているんだ。仕事がひと段落したら‥いや、何かがあってもお前を見つけて帰れるように。俺の道しるべだ。」

わたしは涙が溢れて止まらなくなった。
「愛してる―。」
あなたにだけ使える言葉なんだと、はじめてわかった。
心の震えが止まらないよ――。







初出:2018/06/26

魔法の傘






長雨が続く、梅雨真っ盛りのこの時期にしては珍しく、今朝は早くからお日様がお顔を見せてくれた。
わたしは、ここぞとばかりにお洗濯をして、お部屋のお掃除をして、それでもまだお昼には早いので、ちょっとお散歩をしてみることにした。
この街に越してきて半年。
いつも会社とおうちの往復ばかりで、まだちゃんと歩いたことがなかった。
でもひとつだけ、すごく素敵な所を見つけていた。
何のことはない住宅地の坂道なんだけど、4月初めに通りかかった時、すっごく沢山のソメイヨシノが満開で、まるで映画に出てきそうな場所。
桜がみんな散ってしまうまでは何度か足を運んだんだけど、最近はWワークでなかなか時間が取れなかった。
実はこの桜の木の下には(正確には「周り」には)秘密があって、この時期をず~っと楽しみにしていた。

おうちからはだいたい20分くらいかしら‥。
軽く汗をかくくらいの距離のところに、その場所はある。
市街地からは少し離れているせいか、平日のこの時間は人通りも少なく、この静けさがすごく心地よい。
いよいよこの角を曲がるとその場所に着く‥と言うところで、わたしは足を止めた。
そして目を閉じて、深く、深く深呼吸―。
心を落ち着けてから、一歩足を踏み出した。

『うわぁ~やっぱりだぁ~!めちゃすご~い!!』

思わず声をあげ、「その場所」へ駆け寄った。
角を曲がってわたしの目に飛び込んできたのは、色とりどりに咲き誇る紫陽花―。
赤、青、紫、白、そしてピンク。
桜の木の隙間を埋め尽くすように植えられた紫陽花は、所狭しと咲いていた。
わたしはスマホを取り出して、ひたすら写真を撮りまくった。

一通り撮り終えたころ、片隅の葉っぱがもぞもぞと動き出した。
ま、まさか‥良からぬ予感がして後ずさろうとしたその時、小さなカタツムリがちょこんと顔を出した。

『きゃ~~~かたつむりさん!!』

本日二度目の奇声を発してしまった‥。

そんなわたしの叫び声など何もなかったように、そのカタツムリはにゅるにゅると葉っぱの上を歩いた。
「歩いた」と言う表現は正しいのかな‥?
ゆったりのんびりと、すべるように移動するカタツムリに顔を近づけてじ~っと見ていると、もう一匹、隣の葉っぱからカタツムリがやってきた。
そして、最初のカタツムリが居る葉っぱに移動しようとして‥落ちた。
わたしは慌てて差し出して、手のひらでキャッチ!
最初のカタツムリのお隣りへ、ちょこんって並べてあげた。

しばらくして、お互いに触角を使ってコミュを始めたかと思うと、二匹並んで移動し始めた。
たまに立ち止まって(?)、触角でお互いを確認しながら。
んんん?これってもしかして‥え?
まぁ、幸せになってね~!と心の中でささやかに祝福していると、ぽつ‥ぽつ‥と
雨が降り出してきた。
今日くらいしかゆっくりと休める日はないのに‥。
もうちょっとだけ‥そう思ってまた紫陽花に見入っていると、頭の上から優しい声が聞こえた。

『風邪引きますよ。』

その声にびっくりして振り返ると、空色の傘をわたしに差し掛けて立っている男性が居た。

『え?あ、すみません。』

わたしは頭を下げて立ち去ろうとすると、さらに男性から声をかけられた。

『紫陽花はお好きですか?』

『ええ。』

わたしが立ち止まって返事をすると、『実は私も好きなんですよ。』と言いながら、わたしを傘の中へ招き入れてくれた。
さっきまで小降りだった6月の雨は、傘がなくてはずぶぬれになってしまうほどに雨あしが強まってきた。

『紫陽花にはいろんな種類がありますけど、私はガクアジサイが好きでしてね。でも、なかなか見かけないのですが、ここにはいろんな種類が植えてあるのでよく来るんですよ。』

そう言って、彼は紫陽花について話し出した。

『もちろん、ホンアジサイも好きですよ。色とりどりに咲き誇る紫陽花は、西洋のバラにも匹敵するくらいに誇らしい日本の花です。正確には花ではないですけれどね。ヒメアジサイも可愛らしいですね。』

すごく優しいまなざしで紫陽花を見ながら話す彼が、なんだか輝いて見えた。

『へぇ~すごくお詳しいんですね!』

わたしがそう言うと、彼はにっこり微笑みかけて、さらに話をつづけた。

『いつか大切な人と暮らす家は、紫陽花でいっぱいにしたいと思っています。』

わたしはちょっとびっくりした。だって、紫陽花の花言葉って‥。
きょとんとしているわたしを見て、彼は察したようにまた話をした。

『あぁ、確かに紫陽花の花言葉には、「冷淡」「冷酷」「移り気」など、マイナスなものが多いですね。でも一方では、「一家団欒」や「家族の結びつき」なんて言う温かいものもあるんですよ。』

わたしはさらにおめめを丸くした。

『ご存知だったんですか!?』

そう問いかけると、『あなたもご存知だったんですね!』と、嬉しそうに満面の笑みになった。

『小さな花びらが‥正確には萼(がく)ですが、寄り集まって咲いてるのって、家族がいっぱいいるようで素敵だなぁ~って思うんです。子供が沢山いたら、にぎやかで楽しそうですし!あ‥、もしかして、だからガクアジサイがお好きなんですか?』

彼は、『あはは、そうかもしれないですね。』ってにこやかにうなずいた。
そんな彼が、すごく輝いて見えた。「あぁ‥この人は、家族をすごく大切にする人なんだなぁ‥。」そう思ったら、わたしも自然に笑顔になった。
そうこうしているうちにお昼も回り、さっきまでの本降りの雨が小雨になっていた。

『これ以上は本当に風邪を引いてしまう。どうぞこの傘をお持ちください。』

そう言って彼は、わたしに空色の傘を持たせた。
わたしは慌てて彼に傘を返そうとしたけど、『うちはすぐそこですから。』って言いながら走り出した。

『待って!あの、またお逢いできますか?』

わたしが叫ぶと、彼は一瞬振り返り、

『一年後、あなたが覚えていてくれたら、ここでまた!』

そう言って消えてしまった―。



あれから何度かあの場所に足を運んだけど、結局彼に逢うことはできなかった。
空色の傘は、いつしかわたしの心の拠りどころとなっていた。
そして一年後。
彼がもし、あの約束を覚えていてくれたなら―。

わたしは、ずっと大切にしまっていた空色の傘を持ち、「あの場所」へ向かった。
一年前のあの時とは違って、期待と不安の入り混じった、何とも言えない複雑な気持ちだった。
あの角を曲がって、彼が居なかったら‥。

わたしは曲がり角の手前で、一旦足を止めた。
そして目を閉じて、深く、深く深呼吸―。
心を落ち着けてから、一歩足を踏み出した。
空色の傘を、ぎゅっと抱きしめながら。





市街地から少し離れた住宅地の一角に、「紫陽花ロード」と呼ばれる坂道があります。
ちょっと急な坂道なので好んで通る人は少ないのですが、ごくごくたま~に、
素敵なことが起こることもあるそうですよ。



イメージ 1




イメージ 2
<紫陽花ロード>