魔法の雨
『ちょっと大きいかもしれないけど、このTシャツ、パジャマ代わりに使って。』
そう言って、友だちがロングTシャツを出してくれた。
わたしはうつむいたまま、うん、と小さくうなづいて受け取る。
土砂降りの雨の中、傘も差さずに彷徨い着いたのが彼女の家だった。
突然訪れた濡れネズミのようなわたしに、彼女は慌ててバスタオルを被せて、ぎゅ~って抱きしめてくれた。
止めどなく涙が溢れた。
頭の中が真っ白で、なんにも言葉にできないのに、ただただ流れる涙が止まらなかった。
背中をさすってくれる彼女の手が、冷え切ったわたしの心と体を、ほんのり温めてくれた。
シャワーを浴びて彼女が出してくれたTシャツを着る。
無言のまま部屋に入ると、彼女が温かなスープを差し出してくれた。
『体の芯から温まるよ。』
そう言いながらテレビをつけると、ご近所さんが洪水で通行止めになっている映像が全国ニュースで流れていた。
『うわぁ~あんたよくここまで歩いて来れたね!』
本当に驚いたように、わたしをまじまじと見る。
わたしはうつむいたまま、何も言えない。
ふぅ~。ひとつ溜息をつき、『それ飲んだらもう寝なさいね。』って言いながら、ベッドを指さした。
わたしが顔をあげて彼女を見ると、『わたしは大丈夫。このソファ、ベッドになるから。』そう言いながら、すでにベッドに変化(へんげ)させている。
わたしはスープカップを片付けて、ベッドに入る。
柔らかなフリージアの香りの香水。
彼女に抱きしめられているような感覚に陥って、すぐに眠りに入った。
彼女は何も聞かずに、やはりソファベッドで眠りに着いた。
それが7月の初めの頃の出来事。
タン‥タン‥‥タタン‥‥タン‥‥‥。
リズミカルな音に、うっすらと目を開けてみる。
幾重にも重なるレースのカーテンの向こうから聴こえてくるそれは、雨どいの繋ぎ目から滴り落ちる雨音のようだ。
布団の中で体勢を整えて、ぼんやりと眺めていた。
しばらくして、部屋の中が静かなことに気づく。
あれ?彼女は‥?
わたしはベッドから降りると、彼女が寝ているはずの部屋に行ってみる。
ソファの上にはお布団がきちんとたたまれていて、テーブルの上には彼女が作ってくれたご飯が置いてあった。
『人間が生きていくうえで最低限必要なのは、睡眠と食事だ!
ちゃんと食べたか帰ったらチェックするからね!』
ぷ‥思わず吹き出してしまった。
女にしておくのは実にもったいない‥そう思ってしまうほど、彼女のたくましさがうらやましい。
彼女の作ってくれたご飯をひと口頬張ると、また涙が溢れてきた。
『あとでいただきます。』
お箸を置いて彼女の手紙に書き足し、またベッドに横たわった。
今はただ何も考えず、無の中にうずもれていたい。
ここ数か月、ほとんど眠れていなかったからー。
彼女の家に来てから数日が経った。さすがにいつまでも迷惑をかけるわけにはいかない。彼女がお仕事に行っている間にお布団をたたんで、掃除機をかける。
小さめの台所に立って、久々にお料理。
何年ぶりかな。彼と出逢うとっくの前に、包丁すら持つのをやめていた。
でもまぁ、まだそれなりの見栄えでは作れるらしい。我ながら感心しつつお料理を並べて彼女の帰りを待つ。
しばらくして彼女が帰ってきた。
『ただいま~!』
『おかえり‥。』
わたしが出迎えると、彼女がんん?って不思議そうにわたしの顔を覗き込む。
『ずいぶん顔色良くなったね!』
そう言いながら、部屋に入るなり『わぉ~!』と奇声を上げた。
『すっごいじゃん!何この豪華な料理!!』
『や、一宿一飯の恩義?正確には一週間くらいだけど‥。』
どれどれ~と手も洗わずにつまみ食いする彼女。
『うん、うまい!さすが調理師だね~!』そう言いながらしっかり座って食べ始めた。
『こんなに料理上手のあんたを泣かせるなんて、あんたの彼氏は何考えてるんだろうね~。』
そんなことを言う彼女に、わたしはぼそっと呟いた。
『免許持ってるって言ってない。お料理も作ってあげたことない‥。』
わたしの言葉に彼女は目を丸くして、持っていたお箸を落とした。
『は?なんで‥?なんかされたの!?』
彼女の目が少し怒気を帯びたようにわたしを捕らえた。
わたしはびくっとなって、慌てて否定した。
『ち、違うの。彼はたぶん、わたしが作ったものは何でも食べてくれると思う。』
ふぅ~と息を吐いて、わたしがお料理できなくなった訳を、彼女に話した。
はじめてお付き合いした彼は料理人で、わたしの作る料理なんて口も付けてくれなかった。次にお付き合いした彼は、まな板からはみ出すくらいのお魚さんをさばいているわたしを見て、「お前は無人島でも生きていけるよな。」そう言ってか弱い女性の元へ行ってしまった。
その後も一人暮らしの長かった彼には「免許もってるなんて恥ずかしいから言うな。」とか、本当にひどいことばかりで、いつしか台所に立つのも嫌になっていた。
そんなわたしの話を真剣に聞いていてくれた彼女が、『だったらわたしのところにお嫁に来なよ。わたしなら大歓迎だ。わたしのために毎日ご飯作って!』そう言いながらうつむいていたわたしの顔を覗き込む。
わたしの目からは涙がぽたぽたと零れ落ちた。
ずっと抑えていた感情が溢れだす。
そんな時、突然チャイムが鳴った。
『あ、晩ご飯にと思って頼んでたピザ屋さん来たみた~い。』
彼女はそう言いながらパタパタと玄関に行ってしまった。
わたしが止めどなく溢れる涙を拭いていると、『バカだな。』ずっとずっと聞きなれた声が頭の上から降ってきた。
びっくりして振り返ると、なぜかそこには彼がいたー。
『な、ななななんでここに居るの!?』
わたしが慌てて立ち上がると、『ほら、帰るぞ。』そう言いながらわたしの腕をつかんで玄関へ向かう。
『え、え‥やだ、助けて‥‥!』彼女を見やると、彼女は『またね~!』ってにまにましながら手を振っている。
彼に手を繋がれたまま、隣をとぼとぼと歩く。
正面をまっすぐ見ながら無言で歩く彼の顔を、うつむきながら上目遣いで見る。
いつの間にか本降りになった雨に、わたしが濡れないように傘を傾けて差してくれている。
こんな時でも優しい彼に、自分が情けなくてまた涙が溢れてくる。
『‥なんで彼女のうちがわかったの‥?』
わたしがぽつんと呟くと、彼はこちらを向いて立ち止まった。
『彼女が連絡をくれたんだ。』
彼の言葉に、あ、そっかぁ~と納得する。
でも‥。
『お仕事忙しいんでしょう?わたしのことなんかほっとけばいいじゃん。こんな‥自分のことしか考えられないわたしのことなんて‥。』
なんで迎えに来たの‥?と言葉を続けた。
『あいつ、「今日迎えに来なかったら、わたしが嫁にもらう!」って言ってきたんだ。』
そう言って彼は顔をそらして、話を続けた。
『さっきの話、全部聞いてた。あいつずっと、電話繋いで会話が聞こえるようにしてたんだ。』
そう言って、わたしの方に向き直る。
わたしはびっくりして、慌てて謝る。
『あ‥今までずっと言えなくてごめんね。コンビニのおにぎりさんも確かにおいしいけど、これからは‥ちゃんとご飯作るからね。』
そう言うと、彼も、『俺もいろいろ謝らないといけないことはいっぱいあるけど、一番は、お前にプレッシャーをかけてたのかな‥と。』と話し始めた。
『「いいお嫁さん」って言うのは、なにもすべてを完璧にしてくれって意味じゃなかったんだ。ただ笑顔で、俺のそばに居てくれればそれだけでいいんだ。』
わたしはまた、うつむいてしまう。
それでも彼は、言葉を続ける。
『俺はそんなに器用じゃないから、ひとつのことに夢中になると手いっぱいになって他のことを見られなくなるけど、仕事が忙しくなると寂しい思いもさせてしまうけど、それでも俺のそばに‥居てくれないか?』
彼もうつむいてしまった。
『いつも‥何をするにも自信がなくて、人の反応が怖くて、大好きな人の反応が一番怖くて‥無言にも耐えられない。』
わたしの目からぽたぽたと涙が零れる。
ずっと気づかないふりをしていた、自分の心の奥底にあったものが、言葉になって出てきた。
彼が、傘を持つ手とは反対の腕で、わたしの肩を抱き寄せた。
『俺だって怖いよ。でも、お前と生きられないと思うと、そっちの方が怖い。』
顔をあげると、すごく真剣な顔でわたしを見ていた。
わたしはふと目をそらし、『ま‥まぁ、今日は七夕様だし、ちゃんと彦星様がお迎えに来てくれたから‥うん、あなたについて行きます。』と、照れ隠しに言ってしまった。
彼は、ふっ‥と息を漏らし、『まぁ、今日くらいはこの優秀な彦星がちゃんとそばに居てやらないと、織姫がかわいそうだからな!』なんて憎まれ口を聞く。
わたしはくすくすと笑ってしまった。
彼も、いつもの優しい笑顔になった。
まぁ、『優秀』なのは間違いないけどね。そんなことを思いながら、ふと、本降りの雨が小雨になったのに気づく。
『あ、彦星様と織姫様は、雨が降ると逢えないんだよ。』
わたしが彼の眼を見て言うと、『こうして逢えてるだろう。』と彼が見つめ返す。
『だいたい、彦星も織姫も、みんなに逢瀬を見られたら恥ずかしいだろうから、雨でいいんだよ―‥。』
そう言った彼が傘を持つ手を車道に傾けて、わたしを抱き寄せた。
そして‥濡れた唇をわたしの濡れた唇に――。
どれほどの時間が流れたのかわからないほど、二人だけの時間がそこにはあった。
『七夕』と言う説話の力を借りなくても、きっとずっと一緒だよ。
だって、心と心の繋がりは、確かにここにあるから、ね。
初出:2019-07-07 00:00:00