生命線‥

 
 
『大丈夫よ。わたしの生命線、長いんだから』
彼女は自分の手をひらひらさせながら、いつもそう言って笑っていた。


カシャン――‥
『あっ‥』
久々に休みを取れたあの日、彼女は紅茶を入れてくれたが、カップを落としてしまった。
『なにやってんだ!?』
『ごめんなさい‥』
ビックリした俺は、思わず大きな声を出してしまった。
そんな声に驚いたのか、彼女は割れたカップを拾おうとして、また落としてしまった。
『‥ごめんなさい』
彼女は瞳いっぱいに涙を浮かべ、小刻みに震えていた。どうやら指を傷つけてしまったようだ。
『あぁ‥いいよ俺がやるから』
そう言って差し出した俺の手の先には、今まで見た事もないような老婆のような手があった。
『おい、その手‥』
『大丈夫、最近空気が乾燥してるから‥』
慌てて手を引っ込め、洗面台へ向かう彼女。俺は驚きながらも、気にせず破片を片付けたのだ。思えばあの時、無理にでも問いただしていれば‥


彼女が入院を余儀なくされたのは、それから間もなくの事だった。手の震えが止まらず、食事も侭ならない。しゃべる事さえ困難な状態だった。
医者からは「なんでこんなになるまで放って置いたんだ」と険しい顔で言われたが、それは俺自身が彼女に言いたい事だった。
『何で言わなかったんだ。自覚症状は出ていたはずだ。』そう聞いてみたが、彼女からは意外な答えが返ってきた。
『何度も言おうと思ってた。でも、あなた私の話をまったく聞いてくれなかったじゃない』
『なん――‥』言われてみれば、ここ数年仕事が忙しく、彼女とまともに話した事はないかもしれない。いや、彼女の顔すら直視した事はなかったのかもしれない。
『でも、定期検診は受けてたんだろう?』
『ん、でもずっと自覚症状はなかったし、「要経過観察」だけで、受診するまでもないって‥』
『なんだ、それは!こんなになってからじゃ遅いだろう?いったいなにやってんだ!!』
『ごめんなさい‥』
今にも消え入りそうなかすれた声を振り絞り、彼女は涙ながらに謝った。そんな彼女を見て俺は、ここまで気づいてやれなかった自分に憤りを感じた。
『でも、大丈夫よ。私の生命線、意外と長いんだから』
彼女は笑顔でそう言った。
『あぁ、大丈夫だ。俺が何とかしてやる。どんな手を使っても、治してやるから!』
『ん‥』
彼女の手を握り締め、俺も笑顔でそう答えた。彼女は安心したように眠りについた。
それからしばらく病状は一進一退を繰り返しているように見えたが、彼女はまだ若かったので病気の進行は意外と早かった。
「これ以上は治療方法がありません。痛みを抑えるだけで、病気の進行を食い止める事は‥現在の医学ではできないのです」
医者がそう言った。俺は耳を疑った。
『何を言ってるんですか?じゃあ、どうしろと‥!?あいつは‥このまま死を待つだけなんですか!?』
胸ぐらをつかみ怒鳴る俺に、医者は「すみません‥」と本当にすまなそうに言ったが、それ以上どうする事もできなかった。

俺は長期休暇をとった。今まで仕事にかまけ、まったく彼女を見ていなかった償いと言うか、とにかく彼女の最期は一緒に居てやりたかった。
完全看護の病院だったが、俺がいないと精神不安になって治療が著しく困難になるとか何とか‥そんな理由で無理やり泊り込んでいた。
酸素マスクをつけた彼女は、本当に話すのが辛そうだった。でも、俺は彼女の手をとり、それまでの人生でこんなにしゃべった事はないというくらい話をした。
彼女は『うんうん』と軽くうなづきながら、俺の話に耳を傾けていた。そんな状態が3ヶ月も続き、さすがの俺もへこたれてきた頃、『大丈夫よ。私の生命線、長いんだから』そういって俺の手を弱々しく握り返した。この時すでに顔の筋肉は強張り、表情を変える事はできなかったが、彼女の目は笑っていた。まるで俺を包み込むような慈愛の目で‥。
『あぁ‥あぁ、そうだな』
俺はもう、言葉にできなかった。死を目前にして、それでもこんな俺の事を気遣うなんて‥。俺は彼女の何を見てきたのだろうか――。


俺はひとり、空を見上げていた。
曇天の空からは、無数に舞い散る粉雪。
彼女を失い、空虚な抜け殻となった俺の心を埋め尽くすように、それは幾重にも重なりながら降り続いていた。
『あぁ、俺はこれからどうしたらいいんだ‥?おまえがいなくなって、俺はどうやって生きていったらいいんだ‥?』
そんな俺の問いかけが聞こえたのか、ほんの一瞬、曇天の空の一部が虹色に輝いた。
彩雲――。
あの日彼女の瞳から見えた、慈愛の光の如く俺を包み込んだそれは、俺の生命線のように――。


『あぁ、君はそこにいるんだね。その天(そら)から俺を‥こんな俺を見守っていてくれるんだね‥』



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お題≪そら≫です~
今回は趣向を変えて^^;
長々と失礼致しました~ㆀ