魔法の風

 
 
 
 
扉の向こうに吹き込む風は、心の隙間を埋めるかのように、やさしく‥そして温かい。
その日玄関を開けると、たくさんの桜の花びらが吹き溜まりを作っていた。
あ、今年はお花見に行けなかったなぁ~と思いながら、花びらを両手いっぱいにすくってみる。
ふわぁって空に向かって放ってみると、やわらかな風と共に降り注ぐ。
フラワーシャワーのように舞い降りる花びらは、5月の朝日にきらきらと輝いていた。
 
 
『ところで‥管理者に興味はありますか?』
 
部長との和やかな定期面談中、部長が神妙な面持ちで聞いてきた。
あまりに突然だったため、わたしは吹き出してしまった。
 
『え~わたしが管理者なんてできると思います?』
 
そう言うわたしに、部長は慌てて手を振った。
 
『あ、いや。無理にとは言わないよ。ひとりになったって聞いたし、そろそろ管理職もいいんじゃないかと思ったんだ。ほら、結婚しないんだったら「仕事に生きる!」でしょ?』
 
一気にわたしから笑顔が消える。
 
『いったい誰が言ってたんですか!?今日の面談は終了します!お疲れ様でした!!』
 
ドアをバタンと閉めて会議室を出たわたしに、『待ってるよ~急がないからね~。』と、部長のか細い声が聞こえてきた。
部長と言っても社歴はわたしの方が長いので、業務以外ではお友だちのようだ。
まぁ一応お仕事は真面目にやってるけど、もちろん。
 
自席に戻って思わず深いため息をつく。
大好きな彼と連絡が取れなくなって2か月。
いい加減、捨てられちゃったってことを認識しなくちゃいけない頃だと思う。
でも、頭ではわかっていても、心が追い付かない。
彼と一緒に居ることが当たり前で、彼のお嫁さんになることだけを考えて生きてきたから‥。
その現実が消えてしまった今、どう生きていいのかわからない。
わたしの生きている意味はいったい何?
今までどうやって生きてきたのか、これからどうやって生きていけばいいのか‥考えても考えても答えが出ない。
 
『な~にため息ついてんだ?悪いもんでも食ったか?』
 
後ろから書類で頭を小突かれる。
振り返るとそこには、口の悪い強面の係長がいた。
 
『何するんですか!記憶のねじが飛んでっちゃうじゃないですか~!』
 
係長はわたしの頭をペシペシしながら、大笑いした。
 
『大丈夫だ、お前の記憶は底辺だから、これ以上なくなることはない。』
 
うう‥確かに記憶力がないわたしだけど、忘れられないことだってあるのに‥。
ぐっと歯を食いしばったと同時に、涙が零れた。
びっくりした係長が後ずさる。
 
『うゎ‥なんで泣くんだ!?すまん、そんなつもりじゃなかったんだ‥!』
 
係長の顔が引きつっているのがわかる。
そんな係長を見ることができず、わたしはうつむいたまま呟いた。
 
『2か月です‥。』
 
『え‥?』聞き返す係長に、わたしはつい、言葉を続けてしまった。
 
『もう2か月も経つのに、未だにお迎えに来てくれるんじゃないかと信じてるんです‥。』
 
涙声のわたしの言葉に、係長がぼそっと呟いた。
 
『まだ2か月だよ。』
 
わたしはびっくりして、係長を見上げた。
係長はそっぽを向きながら、『まだ、2か月だよ。』そう言った。
 
『ほ‥惚れちゃいますよ‥!』わたしは涙を拭きながら、いつもの軽口を言ってしまう。
 
『ば~か!俺は愛する嫁さん一筋だ!』
 
照れもせず真面目な顔でのろける係長が可笑しくて、さっきまでの涙を忘れて笑顔になれた。
いつも厳しくて怖いけど、こんな時に優しくしてくれる上司に感謝だね。
 
 
その日の帰り道、課長と一緒になった。
いつも優しい天使のような笑顔で接してくれて、殺伐とした職場の中で、唯一の癒し的存在だ。
そんな課長に、わたしはふと尋ねてみる。
 
『課長は、なぜ管理者になったんですか?』
 
課長は足を止め、優しい笑顔で話してくれた。
 
『私はここに来る前、小さな部署の部長をしていたんです。でもちょっと疲れちゃってね。一旦管理者を降りて、平社員として働いていました。』
 
『そうだったんですか‥。』初めて知る課長の過去に驚いて、課長を見つめる。
 
『でもね。』と課長が話を続ける。
 
『この部署に来てみなさんと接することで、また元気を取り戻せたんです。なので、また管理者をやってもいいかなって思えたんです。』
 
課長の柔らかい笑顔が、この部署の優しさを表しているのかもしれない。
 
『わたし‥管理者にならないか?って聞かれたんです。でも‥こんなわたしができると思えなくて‥。「わたしになんかできない」って、自分でそう思ってしまって‥。』
 
わたしの言葉に、『あぁ、そう言うことか。』と課長が呟いて、真剣な顔でわたしを見た。
 
『「やってほしい」って言われたときに、自分に余力があったらやってみてもいいと思うんです。とりあえずやってみて、やっぱりダメだと思ったらリタイアしてもいいから。自分からやりたいって言ってやるのは、それだけで敷居が高くなるでしょう?ダメだったときに、なんだダメじゃないかって言われちゃうしね。今、もしやってみたいって思うなら、みんなでサポートしてあげられるよ。』
 
最後はにこっと笑顔を見せてくれる課長の頭上に、天使の輪が輝いていた。
 
 
翌朝、わたしは部長の手を取り会議室へ引きずり込んだ。
 
『昨日のお話、全然自信ないけど、わたしで良ければ管理者やってみてもいいかも‥です。』
 
部長は一瞬、豆鉄砲を食らった鳩のようにおめめを丸くしたけど、わたしの言葉を理解すると満面の笑みになった。
 
『おぉ~決心してくれたか!助かるよ!!早速新人研修から入ってくれ~。』
 
そう言うとわたしの手を両手で握りしめてぶんぶん振った。
わたしは慌てて手を振りほどく。
 
『や、ダメそうだったらすぐ降りますからね!!』
 
部長は、『そんなこと言わないでくれよ~。』としゅんとなった。
すかさずわたしは提案する。
 
『と言うことで、部署名を「おはな」にしましょう!』
 
わたしの言葉に、部長が『は‥?お・は・な??』と聞き返す。
わたしは得意げに話を続ける。
 
『「Ohana」はハワイの言葉で「家族」を意味します。でも、血縁関係がなくてもOhanaになれるの。だから、新人さんたちはみんな子供たちで、Ohanaだよ!』
 
部長はぽかんと口を開け、『いや、ここ‥会社‥。』と力なく言った。
わたしは聴こえないふりをして、会議室を後にする。
『仕事しようよ、仕事‥。』そう言いながら泣いている部長は見えない見ない。
 
 
寒い雪の季節から、徐々に暖かな季節へと移り変わる。
扉の向こうに吹き込む風は、心の隙間を埋めるかのように、やさしく‥そして温かい。
少しずつ‥ほんの少しずつかもしれないけど、前に進んで行けたらいい。
わたしもいつかあなたのように、大切な人たちを守れるようになれるといいな。
ううん、きっとなれると信じてー。
 
 
 
初出:2019/5/10 00:24