魔法の鍵






しとしとと降り続く雨の中、わたしは大きな箱を胸にそぉ~っと抱えて、
紫陽花ロードの丘の上に向かった。
そこには、大好きな彼のマンションがある。
彼とは今日、約束はできなかった。
ここのところ忙しかった彼とは、最近連絡が疎通になっていた。
なのでわたしは、直接彼のマンションへ行ってみることにした。
大きなこの箱だけでも、渡せたらいいな‥そう思いながら。

彼の部屋の前で、呼び鈴を鳴らしてみる。
案の定、扉の向こうから返事はない。
何となく、もしかしたら彼が家に居るのではないか…なんて淡い期待があった分、
やっぱりか‥と言う落胆は大きい。
今日は、とても大切な日だから…。

「なんで居ないのよぉ…。」

思わずそう呟きながら玄関のドアに背中をつけると、そのままするすると座り込んでしまった。
今朝は早くから起きて、台所でひとり、格闘していた。
そう言うときっと、すごく大げさに聞こえるかもしれないけれど、わたしにとっては一大イベントだった。
一週間も前からイメージトレーニングをしていたのに、いざ本番を迎えてみると、
なかなかに難しい作業がいっぱいだった。
やっとの思いで出来上がった『それ』は、傍目から見るととても不格好で、
とても『それ』と認識するのは難しいかもしれない。
でももう、誰かに聞いている時間はない。
わたしは、事前に用意していた箱に『それ』を入れ、綺麗にラッピングをして家を出た。

正直、かなり悩んでいた。
逢いたい時に逢えないし、連絡が取れない時もあるし、
もしかしたら他に好きな人ができちゃったのかな、なんて…。
でも、今日もしかしてちゃんと逢えたら、そんな考えも消えるような気がしていたのに…な。

そして1時間後―。
わたしは彼のマンションの玄関先で、しとしと降りしきる雨音を訊きながら、眠りに落ちてしまった。



さらさらと触り心地の良い感触に、しとしとと心地よい雨音。
そして、どこからか微かに大好きな彼の匂いがした。
そう、大好きな彼が大好きな、コーヒーの香り…。

あれ…?ん………?

わたしは慌てて目を開けた。
飛び上がって辺りを見回すと、彼がコーヒーをすすりながら、難しそうな本を読んでいる。
わたしの気配を感じたのか、ふとこちらを振り向き、おもむろに笑顔になった。

「目が覚めた?いや~びっくりしたよ。」

柔らかな笑みのまま、彼がわたしの傍までやって来る。
状況をつかめていないわたしは、ここで初めて、彼のベッドに横になっていたことを知った。
えええぇぇ~~~~!?
顔面蒼白…ううん、ゆであがったたこさんのように真っ赤になった顔を見られたくなくて、
お布団の中に隠れた。
そんなわたしを彼は、お布団ごと抱きしめて、まるでバナナの皮をむくように、そっとお布団をはがした。

「あ、あ、あれ?わたし…。んと、あ、ごめんね、忙しいのに…。」

思わず俯いて、しどろもどろになる。
今は耳まで真っ赤っか。熱い…。
そんなわたしにお構いなしで、彼はわたしのおでこに自分のおでこを押し付けた。

「ん…、大丈夫そうだな。」

……?
わたしがきょとんとしていると、彼は苦笑いしながら答えた。

「おまえ、いつからあそこで寝てたの?ずいぶん暖かくなってきたとは言え、
いくら何でも雨降りの夜に外で寝てたら風邪ひくでしょ?」

あ、しまった!
今日は朝早かったから、ここについて彼がいなかったことで気が抜けて…。
彼は、わたしがお熱を出していないか確認してくれたらしい。
いや‥、それっておててでも良かったのでは…。
そう思いながら、ここに来た主目的を思い出す。

「あ、…箱。」

わたしは慌ててお布団から出ようとすると、彼がテーブルの上を指さして、
声を抑えながらくすくすと笑った。

「あぁ、あれね。うん、美味かったよ。」

わたしは目玉が飛び出そうなくらい目を見開いて、彼を見た。

「え?食べたの?なんで??違うよ!あれは…あれはオブジェだったんだよ!!」

渾身の力を込めて叫ぶと、彼は、うわっはっは~と豪快に笑いだした。
おめめに涙を浮かべながら…。

「ぃやぁ~違うの!なんで笑うの!?ひどい…。ケーキじゃないもん!オブジェだもん!」

頑張ったのに…。もう言葉にできなくなって、わたしはそのまま泣いてしまった。

「ごめん、ごめん。」

彼は涙をぬぐいながらわたしを引き寄せて、そっと抱きしめ、頭をぽんぽんってしてくれた。
でもそんなんじゃ、わたしの気持ちは収まらない。
気持ちいいけど…。

「ありがとう。おまえの気持ちが十分に伝わってきた。本当に美味かったよ。」
「ありがとう…。」

彼がさらにぎゅ~って抱きしめた。
わたしは彼に向き合って、きちんと座り直し、彼に言った。

「お、お誕生日、おめでとう!…遅くなっちゃったけど。」

時計を見ると、すでに日付が替わっていた。
本当はお誕生日の日に、彼に伝えたかったのに。

「大丈夫、遅くても嬉しいよ。」

彼はにこやかに笑って答えてくれた。
その笑顔を見たら、何となく抱いていた不安が、見事に消え去った。

「よかった…。でも本当は、あなたの大切な日に、一緒に過ごしたかったな…。」

ふと、そんな呟きが唇から漏れた。
そんなわたしの唇に指でそっと触れ、彼が耳元で囁いた。

「ずっと一緒だったよ。」

そう言いながらわたしの手を取り、冷たく硬いものを握らせた。
わたしが「なに?」と言いながら手を開いてみると、そこには…。

そこには、銀色に光る、真新しい鍵があった。
びっくりして彼を見上げると、優しい目で見つめ返してくれた。

「ここの合鍵。いつでも来ていいよ。ずっと居てくれても良いし。」
「最近本当に忙しくて、電話もできないから…。俺も心配になるし。」
「またあんな風に、玄関で眠られても困るしな!」

最後はいつも茶化してしまう。照れ隠しなのはわかってる。
すごく彼らしいんだけど、思わずわたしも笑顔になってしまう。

「もう…、ひと言余計だし……。でも、ありがとう!めちゃ嬉しい…。」
「わたし、お料理頑張るね!いつかきっと、あなたより上手になるんだから!」

わたしはそう言いながら、涙を堪えることができずに、彼の胸に顔をうずめた。
窓の外からは、しとしとと降りしきる雨音。
そして今、わたしに一番近いところで、彼の心臓の音が聞こえる。
温かく、そして優しく流れる時の中で―。