魔法の浴衣







『わが社では、夏まつり期間中の浴衣着用を推奨します。』
 『県外からお越しのお客様を、おもてなしの心でお迎えしましょう!』

突然そんな周知が社内に回った。
「ただでさえ暑いし忙しいのに、浴衣なんてねぇ~。」そんな声が聴こえてきた。
でもわたしは、『やったぁ~!』って心の中で叫んでいた。
だって和服は好きなんだもの。

さてさて、浴衣はどうしよう?一応数年前に買った紺地の浴衣はあるんだけど、折角だから新調しちゃおうかなぁ~。ずっと白地の浴衣が欲しかったのよね。
この時期はもう、どのお店でもセールをしている。
わたしはちょっと遠くにある、いつもは敷居が高くて入れないきもの屋さんを覗いてみた。

お店に入ると、白髪交じりの髪を綺麗にまとめておだんごにした、落ち着いた柄の浴衣を着た年配女性が近づいてきた。

「浴衣ですね。どんな感じのをお探しですか?」

彼女はにこやかに声をかけてきた。

「あ、すみません。まだ決まってなくて…。白地にしたいなぁ~って言うのはあるのですが。」

「そうですか。白地なら向こうの一角に少しまとめておいてありますよ。」
「ご試着もできますからね。」

そう言われた先に目をやると、色とりどりの浴衣の中に、確かに白地の浴衣がまとめて展示されていた。
あやめに芍薬、牡丹。色合いはピンクや紫が多いかな。
中には水色や山吹なんかもあって、結構種類が豊富かも。
ひとつひとつを手に取って見ていくけど、これだ!って即決できるのはなかった。

どれにしようか決めかねて、ふと顔を上げると、ガラスケースに飾られた浴衣に目が留まった。
その浴衣だけ特別なようで、すごく丁寧な扱いなのがわかる。
その浴衣を見ていたら、遠い記憶がよみがえってきた。


母が大好きだったわたしは、母が買い物に行くときは必ずついていった。
まぁ、買い物を持ってあげるためなんだけど、素直じゃないわたしは、『何か買ってもらえるから』って嘯いていたような気がする。
ホント可愛くなかったね。
その年の夏。いつもとは違う、ちょっと離れたお店屋さんに用足しがあった。
いつもよりちょっぴり先に行っただけなのに、そこに建ち並ぶお店屋さんはどれも新鮮で、わたしはあっちをきょろきょろ、こっちをきょろきょろと目を動かした。
まるでお上りさんみたい。
いろんなお店屋さんが並ぶ中で、1軒だけ風格の違ったお店があった。
表のショウウィンドウに、濃紺の浴衣を飾ったきもの屋さん。
わたしは無意識のうちに、その浴衣に惹きつけられていた。

なんの希望もないかのように思われる闇夜に、数頭の蝶が上へ向かって舞っている。
光る鱗粉をまき散らしながら、艶やかに、美しく。
金糸を使わずパステル調で描かれているせいか、全然嫌味じゃない。
わたしは母の存在も忘れて、しばらく見入っていた。

その後もそのきもの屋さんには、足しげく通った。
『あの浴衣が欲しい』って母に言ったけど、前の年に祖母に仕立ててもらった浴衣があったので、ダメって言われたから。
さすがに中学生のお小遣いでは手に入れられる代物ではない。
暇さえあれば店先を覗きに行っていたが、季節が変わって訪問着が展示されるようになった頃には、わたしも諦めた。
今ではあのきもの屋さんも、お店をたたんでしまっている。


そんなことを思い出しながら、わたしはふらふらとガラスケースの浴衣に近づいていった。
すると後ろから、先ほどの女性に声をかけられた。

「お気に召されましたか?」

わたしはハッと我に返り、振り向いた。

「あ…。と、とても素敵な浴衣ですね。」

とっさに応えたその声は、ちょっと上擦っていたかもしれない。

「ええ。ご希望の白地ではないけれど、お似合いになると思いますよ。」
「実はこの浴衣の作家さんの個展が、近くのデパートで行われているんです。」
「まだ大丈夫だと思うから、よかったら覗いてみませんか?」

そう言って彼女は、招待券を渡してくれた。
わたしは一礼し、早速その展示場へ足を運んだ。


展示場につくと、すでに人影はなく、後片づけをしていた。
時計を見ると19時を回っている。
わたしは出直そうと踵を返してエレベーターへ向かった。
その時、ひとりの男性に声をかけられた。

「やあ、いらっしゃい。よかったら見ていかれませんか?」

わたしは驚いて振り向いた。
そこには背が高く、浅黄色の浴衣を綺麗に着こなした男性が立っていた。

「あ、でももう終わりの様なので出直します。」

慌てて両手を振って帰ろうとすると、彼は柔らかな物腰で手を差し伸べてくれた。

「大丈夫ですよ。あなたのことは、母から聞いていますから。」

さっきのきもの屋さんの女性は、この人のお母さんだったみたい。
わたしは言われるままに展示場の中へ入った。
そこには色とりどりの浴衣が、一枚一枚丁寧に飾られていた。
どの図柄も、配色と言い配置と言いとても素晴らしく、『綺麗』と言う表現とともに、『美しい』と見惚れてしまうような浴衣ばかりだった。

わたしがあちこち見とれて感嘆していると、先ほどの男性が冷茶を持ってきてくれた。
わたしはその冷茶をいただきながら、ひとつひとつの作品に込められた想いを聴いていた。
ふと、会場の一番奥に飾られた、一層目を引く浴衣に目が留まった。
それはまさしく、わたしがさっき思い出した、あの浴衣だった。

「あ…。」

わたしがその浴衣にくぎ付けになってしまったのを見て、彼が『あぁ…。』と近寄ってきた。

「この浴衣…。わたしが子供の頃に見たことがあります。」

わたしは、中学生の頃の話を彼に聞かせた。
彼はややあって満面の笑みになり、話してくれた。

「実はこの浴衣は、わたしが初めて自分だけで作成したものなんです。」
「自分の中では渾身の出来で、僕のお嫁さんになってくれる人に着てもらいたいと思ってるんですよ。」

わたしは目を丸くして訊き返した。

「え…でもあれから、10年以上も経っているんですよ?」

そんなわたしに彼は、ふわぁっとその浴衣を羽織らせてくれた。



数日後、夏祭りが始まった。
わたしは早起きをして浴衣を着て出勤した。
もちろんその浴衣は、わたしが中学の時に出逢ったあの浴衣だったりするんだけど。