魔法のお酢







彼が出て行った。
餃子が食べたいと言う彼に、わたしは不慣れな包丁を握り、不恰好ながらも餃子もどきを作った。
いざ食べようとしたとき、不覚にもお酢がないことに気が付いた。
彼にその話をすると、彼は悲しい顔で出て行ってしまった。
「餃子にお酢がないのは、長介のいないドリフのようだよ…。」
そう言い残して―。

てっきりお酢を買いに行ったのかと思ったけど、しばらく経っても帰ってこなかった。
携帯に電話をしたら、わたしの部屋で鳴った。
不安になって探しに行ったけど、彼はもう、どこにもいなかった―。


月日は流れ、周りからは「いい加減諦めなよ。」と言われた。
「もう他の女のとこ行ってるよ。」「料理上手で器量のいい女と仲良くしてるよ。」
そんな風にも言われた。
でもわたしの頭の中は、餃子の事でいっぱいだった。
どうしたら上手に作れるか。味は?形は?
結論として辿り着いたのは―。
野菜を育てることだった。
キャベツ、ニラ、ニンニク、ショウガ。
ご近所さんで畑を借りて、丹精込めて野菜作りをした。
…苦手な虫さんも、頑張った。
そして、1年かけてやっと育ったお野菜は、それはそれは可愛い出来栄えとなった。

さて、せっかく育てたお野菜を食べるのは忍びないけど、当初の目的は餃子を作ること。
わたしは包丁を握り、せっせとお野菜を切った。
もちろんお手本はクック先生。
あの時作ったものよりは、だいぶマシになったような気がする。
わたしも成長したかな?
いよいよフライパンに火を入れて焼く段階になった。
その時突然、玄関のドアが開く音が聴こえた。

「おそく、なった……。」

か細く聞こえる懐かしい声に、わたしは耳を疑いながら玄関へ向かった。
そこには、無精ひげもそのままに、頭ぼうぼうでボロボロになった彼が倒れていた。
…って、え~~~~!?
わたしは慌てて彼を抱き起した。
彼はひと言「腹減った…。」そう言って、果てた…。

いっぱい、いっぱい言いたいことがあったけど、こんな彼を見たら何も言えないよね。
わたしは彼をずるずると引きずって、とりあえずリビングのソファーまで連れて行った。

「待っててね。ちょうど今、餃子を焼くとこだったから。」

わたしがそう言うと、彼が突然言った。

「お~それはナイスタイミング!」
「俺って冴えてるねぇ~。」

…はい?わたしは訝しげに彼を見た。
ぐったりしていたはずの彼が元気に起き上り、リュックの中から何かを取り出した。
そして高らかにその"もの"を掲げ、自慢げに見せてくれた。

「なんと!ここに取りい出しましたるは、魔法のお酢でござぁ~い!」
「このお酢が、お酢としての働きを示すのは、この世で唯一の餃子のみであ~る!」
「おぉ…!そこの貴女!貴女はなんて幸運に恵まれているのか。」
「このお酢が使えるのは貴女の餃子のみであるぞよ~!」

………。
しばらく呆気にとられていたわたしは、思わず吹き出してしまった。
可笑しい…。てか、彼ってこんなキャラじゃなかったと思うんだけど。
わたしが笑い転げている様子を見て、彼がほっとした表情になった。

「すっげぇ~待たせてごめんな。」
「これ造るのに、3年もかかっちまった。」
「旨い米作んのって、結構大変だったんだよなぁ~。」

え…?わたしは笑うのを止めて、彼を見た。
彼は照れた表情で、わたしを見つめた。

「いやぁ~、おまえが一生懸命餃子作ってるの見てさ。俺、感動して。」
「折角だから、旨い酢を造ってやろうと思って…。」

造ったの?お米から?わたしのために…?
わたしの目に、涙が浮かんだ。そんなわたしを彼は引き寄せて、優しく微笑んだ。

「お前の餃子には、俺の造ったこの酢が必要だ。」
「そして、この酢はおまえの作った餃子でしか持ち味を出せない。」
「つまり、おまえがいないと意味がないってことだ。」

そう言った彼のお腹が、ぎゅうぅぅ~~~と鳴った。
わたしは、一生この人に着いていこうと思った…。