魔法の声







「そっちじゃないよ!」

突然彼がそう言った。
わたしは訳が分からず、足を止めて振り返った。

「え?」

「だから、そっちじゃないよ」

救急病院からの帰り道、始発に間に合いそうだったので、わたしは地下鉄の駅に向かっていた。
夜中にタクシーで来て、朝まで点滴を受けていたのだ。
彼に電話をしながら歩いていた。
人通りの少ない時間なので、誰かと話していないと不安だった。
他愛もない話をしていたのに、突然彼が「そっちじゃない」と言う。
テレビ電話じゃないのに…。

「な、何?」

わたしは辺りをキョロキョロしながら訝しげに聞いた。
彼は自信ありげに言った。

「いいから。反対方向に行きなさい。」

『なんで?』と思いながらも、わたしは踵を返して反対方向へ進んだ。

「なんで~?わたし地下鉄で帰ろうと思ってるんだけど…。」

そう言ったわたしの目の前に、行こうと思っていた地下鉄の駅が見えてきた。

「あ…あれ?なんでこっちにあるの???」
「てか、なんで電話なのにわかったの?」
「あれ?あれれ…?」

こんがらがった頭の中を整理しようと考えていると、彼が優しくこう言った。

「お前の行動はお見通しだ!」
「だから俺の言うこと聞いとけって。」

「え~、何それ~。」

思わずわたしも笑いながら、無事に地下鉄に乗ることができた。




『……っ!…じゃ……。…って…い!!』
遠くから、ひどく怒鳴られているような声がする。
わたしはその声を遠くに聞きながら歩いていた。
行き先がわからない。でも、その方向へ行かなければいけないような気がしていた。

『……くな!…じゃない!!』
どんどん声が近づいてくる。なんかちょっとうるさいかも。
なんだろう?そう思いながらも、わたしは足を止めることができなかった。
先の見えない靄の中を、吸い込まれるように歩いていた。
行く先は遠くにも思えるし、意外と近いような気もする。
なんだか不思議なところ。でもぬるま湯に浸かっているような心地よさがあった。

先ほどの声がぴたりと止んだ。
靄が一層深くなって、自分の足元もおぼつかない。
急に不安を覚えて、足を止めた。
すると突然、今度ははっきりと声が聞こえた。

「行くな!そっちじゃない!!戻ってこい!!!」

わたしはびくっと体を震わせて、振り返った。
そこには今までの景色と打って変わって、何も見えない暗闇だけが広がっていた。
その闇を見た瞬間、前も後ろも上も下も、すべてが闇に包まれていることに気づいた。

「や…ぁ…。」

わたしは体のバランスを崩し、闇の中へと落ちていった。
どこまでも、どこまでも、深い闇の中へ…。



ふと目を覚ますと、彼が険し顔でわたしを覗き込んでいた。
何か怒らせるようなことやっちゃったかなぁ~とか思いながら、彼の顔を見た。
彼はわたしと目が合うと、ふわぁっと抱きしめてくれた。

「よく戻ってきた…。」

耳元で、彼が優しく囁いた。
あれ?わたしって、また迷子になっていたのかしらなんて思いながらあたりの様子を窺った。
どうもベッドに横たわっているようなので、迷子ではなかったらしい。
ちょっと息苦しい。

「…んと、苦しい…よ。」

わたしがそう言うと、彼は耳元にキスをして離れてくれた。

「間に合わないかと思ったよ。」

彼は少し安心したように言った。
やっぱりわたし、何かしたらしい。

「ん~、さっきね、声が聞こえたの。」
「『そっちじゃない』って。」
「それで立ち止まって、気がついたらここにいた、かなぁ…。」

わたしがそう言うと、彼は勝ち誇ったような顔になって笑いながら言った。

「だから『俺の言うことは聞いとけ』って、言っただろう?」

わたしは「うん、そうだね」と言いながら、目を閉じた。
わたしを連れ戻してくれた声。
わたしの大好きな、
大好きなあなたの声の余韻に浸りながら…。